2013-12-14

最後の審判〜HORIZON



年末も押し迫り、
この一年の総締めくくりのような巨大な忘年会。
端っこが見えなくなるような大きな会場で
たらふくのごちそうをいただき、
呑めるだけ呑んだ。

さ、お次は唄っちゃいましょうかね、と
みんなでゾロゾロとカラオケボックスに向かった。
店に着くと、誰がどう決める訳でもなく
それぞれ文句も言わずに順々に部屋に納まっていく。

『あの人、この前まであの人と同じ部屋で働いてたのに違う部屋なんだ。
 あの人は、もうあの人とはあわないって言ってたのに、同じ部屋に入っていく…
 なんか、天上で神様が采配しているみたい…』
そんなことを思いながら、
私もひとつの部屋に入った。

けっこうお酒が回ってきてる。(自覚症状)

最近のカラオケボックスはすごいのね。
別々の部屋にいても、お互いの了解が取れると
モニター画面の上にカメラがついてて
別の部屋の唄っている人が見ることができる。
今回は全室の中継ができるようになっているよう。


ふと横を見ると、○ツカがいる。
酔った勢いで
「○ツカ!一番に唄うバイ!」私
「え?何唄うんですか?」と、○ツカ
「あれよ、夏にサンセットライブで藤原ヒロシが歌いよったUAのあの曲!」

二人して唄い始める。
「○ツカ、いかん!唄い直そう!」
「え、でも別の部屋でみんな見てますよ!」
「やけん、唄い直すんよ!」

唄い直し、
「す〜い曜日のぉた〜いようから〜♪」
 (おぉ、いい感じやん〜)
すると、
ピピッピピッ
どこかで変な発信音…


ガバッ
ここで目が覚めた。
ハイ、今朝の夢です。




夢ってね、
今一度この世のことをいろいろ理解する為の
アナザーワールドかなっておもう。


2013-11-08

もうヒトには騙されません。


昨日も今日も雲ひとつない晴天。
いらっしゃるお客様は
口を開けば、なかなかの強者ぞろい。
ここ最近は濃い(話しの内容や人格が)お客様が多い…

何度もお店の扉を中が見えるようにしようか?
とか、もっと派手な看板を設置しようか?
とか考えたこともあったけど、
これでよかったのかもしれない。

今日は、昨日手に入れた来年のPowerBookに、
たいそう共感できる素敵な文章が載っていたので
自分でメモすると、ますます頭に入るので
そうしたくって、ここに書いてます。



仏の教えは身体を借り物と考える
自分のものであって自分のものでない…


唐の時代、宗一大師・師備(しび)という人が中国で活躍する。
雪峰山の真覚大師のもとで昼夜の別なく修業したが、広く諸国
の禅師を訪ねて行を完成させようと山を下りた。
道に出た途端石につまづいて足の親指にケガをする。
『痛たたぁ〜』、
血が出た指を押さえながら彼は考えた。

「この身体は自分のモノではないのにどうしてこんなに痛いの
だろう」。アッと気がつき山に帰った。


師の真覚は問うた。
「どうした、もう諸国巡りはやめたのか」。
師備は答える。
「もうヒトには騙されません」。
真覚はこの言葉を聞いて大いに褒めたという。


ボクは何年もこの問答がわからなかった。体調を壊してやっと
理解できる。ここでは「聴いて理解すること」と「自覚してわ
かること」の違いを教える。ボクたちはヒトの話を聞いて、世
の中を理解したつもりになっている。テレビの中で展開されて
いる話を聞いて、物事の本質がわかったような気になるのだ。

それが恐ろしい。その場しのぎの情報で真実をつかんだ気にな
るからだ。しかし真実を把握することはまったく違う。
情報や知識が知恵になり、そして智慧に成熟しなければ真実は
姿を現さない。
確かに智慧のスタートは情報からだ。自然現象や人間世界の有
様を、情報によってつかまなければ知的活動は進まない。情報
は結局ヒトから得られるから、数多くヒトや書物に触れなけれ
ばならない。


でもそれだけでは人間は成長しない。お互い借り物の耳と目を
使ったやりとりだけでは情報を成熟させることはできないのだ。
学んだ情報、把握した状況、それらを自分という本物で”しか”
と見つめ、心で発酵させなければならない。精神の奥深く起こ
る感応と実感、その化学変化が重要なのだ。

師備は見て聞いて学ぶ「聞解」(もんげ)の段階を超え、「修
習」の段階に入った自分を実感した。そして山に帰り、「ヒト
から学ぶことを卒業し、後は自分を高めるだけです」と告げて
自己鍛練の道につき進む。


今年の「展望と開運」を書きながら考えていたことは、自己の
使命だった。使命はだれも教えてくれない。しかし生きている
限り使命からはなれることはない。自分の残された使命をどこ
に向けよう。自分を捜しながら書き綴った。

「展望と開運」2014 村山幸徳 より

2013-10-26

トスカーナの木漏れ日とラクマニノフ


あれからすでに20年の月日が流れていった。
私にとっては人生の大きなターニングポイントとなった
イタリアでの生活。
いろんな経験をしたけれど、
今日は音楽の話し。

春先にイタリアに渡り、
よく彼の車に乗って
フィレンツエ近郊の町を車でドライブした。
フロントガラスからは
その上にやねがあるかのような緑の木立。
カーステレオからは
この緑の風景によく似合った
美しいクラッシック音楽が流れている。
自然の風景には、クラッシックが一番似合うことを
このときに知った。
その中でも、まるでこの緑の中にとけ込んでいけるかのような
奇麗なピアノの曲があった。

ラクマニノフのピアノ協奏曲第2番。

流れていくピアノの旋律は、
ヨーロッパの風景そのもの。
切ない時間に聴くのがいい。

ラクマニノフと交流があったマーラー、
マーラーと言えば
ヴエニスに死す。
同じ年代のこの三つはいつも私の中で
セットになっている。
どうぞ、よかったら『ヴェニスに死す』『マーラー』
映画見てください。


ラクマニノフ自身が弾いたという
このピアノコンチェルトを聴きながら
ゆったりした土曜日を過ごし、
ヴエネチアで見た夕日を思い出してます。



2013-03-21

ルネッサンスに嵌まる…



















この期に及んで、ルネッサンスに嵌まっている。
見開き四段、全千ページ以上という
ものすごいページ数の辻邦生の『春の戴冠が』
あまりに面白いからだ。
前回読んでるって紹介して、
未だ終わらず 後、100ページ…
その上、雑誌『一個人』でイタリア・ルネッサンス特集とか出るし…


かれこれ20年前になってしまうイタリア生活のときには、
チンプンカンプンだったルネッサンス。
でも暇さえあれば通いまくった
ウフィッツイ美術館、シニョーリア広場、フィエゾレの丘…
おかげで、本を読んでいく中
いろんな景色や建物、小道や川の流れが目に浮かぶ。


先日、この本があまりに楽しいがために
実家の父に、
『私、今年はフォイレンツェに行って、
 ゆっくりとルネッサンスの絵画を観に行くわ』
と、告げると
『おぉ、行ってこい行ってこい!』
『もうさ、ゆっくりと絵画の前に立つと、
きっとルネッサンスの頃がよみがえる感じでたまらないのよねぇ』
と、感慨深げに絵の云々、ルネッサンスの云々をしゃべっていたら
『お前、じいさんみたいやね〜』
と、
確かに…
どうも、昨今 私の趣味は定年退職後のお父さんたちの趣味のようなのだ…
ま、いっか


呑み友達のSちゃんに
私、今年はフィレンツェに行こっかなぁって思ってるの
って言ったら、
つかさず手を挙げて
『ハイ!ついていきます』
『多分、私、一枚一枚の絵の前で講釈たれるよ〜』
『大丈夫です、私先に出てビール飲んでますって言うから〜』
やっぱり、おっさんな私…


この本、フィレンツェのメディチ家が全盛期の頃、
フィリッポ・リッピの弟子
サンドロ・ボッティチェリの人生を
親友の古典研究者フェデリゴが老年になって回想していく形で語られている。
もう、噛みしめて噛みしめて
読んでます。



ルネッサンスの頃にも
人々は喜び、踊り、楽しみ、
思ってもいない災難に悩み、
不安を抱え
そして次の未来を見つめて進んでいく。

いつの時代も人はあんまり変わらないなぁと思うのです。


















2013-01-27

今回の読みもの



二週間に一度、近くの図書館に行って
何となく4、5冊の本を選ぶ。

年末年始には、宮尾富美子の『クレオパトラ』
一月上旬は、浅田次郎の『蒼穹の昴』



以前、司馬遼太郎さんの本ばっかり読んでたら、
自分の中でいろいろ話がごっちゃになってしまって、
それからは、
敢えていろんな作家さんの本をチョイスするようにしている。


今回は、大好きな辻邦生さんの『春の戴冠』
(やさしくって美しいのよね、この人の文体。)

ルネッサンス期のフィレンツェが舞台。
その時代の申し子で画家のサンドロのことを、
親友の古典学者フェデリコが70歳を超えて書き綴る回想録。


街並や、川の趣、木々の中を流れる風が
ページをめくるたびに鮮やかに目に浮かぶ。

今まで、街や美術館の中で見た作品とその作家、
そしてそれに携わった人たち、
簡単な解説本でしか理解していなかった事柄が、
息を吹き返したかのように私の中で動いている。



見開き四段で、ものすごい文字量なんだけど
頑張って読んでいこうっと。
読み疲れたときに、目が楽しめるように
写真や絵が美しい本も選んできたしね。